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大道芸人・鈴木和人さん

大道芸人

鈴木 和人さん

すずき かずと。静岡県浜松市出身。中学生の頃、静岡市内で行われていた「静岡大道芸ワールドカップ」をきっかけに大道芸人という仕事を知る。同時期、TVで観たブレイクダンスに感銘を受け、友人たちとダンスチームを結成。中学3年生の頃、人生で初めて人前で路上パフォーマンスを行う。高校卒業後、大学進学で京都へ引越し、3回生の時に“日本一周路上パフォーマンスの旅”を実施。卒業後は友人のパフォーマーとコンビを組み、プロの大道芸人として活動する。現在はエフビットコミュニケーションズ株式会社(エフビットでんき)で営業マンとして働く傍ら、パフォーマーとしてステージに立つ日々を過ごしている。児童養護施設を訪問し、子どもたちに自分のこれまでの経験を語る講演活動も精力的に行っている。

 

 

子どもたちに“自己肯定感”を育んでもらえるように「本物」のパフォーマンスと言葉を届けたい

 

 

鈴木さんが大道芸人を志したきっかけを教えてください!

 

大道芸との出会いは中学1年生の秋。当時の僕は静岡県静岡市にある中学校に通っていたんですが、ある日、市内を歩いていると「静岡大道芸ワールドカップ」というイベントが開催されていました。このイベントは静岡市内の各所で世界中から招かれた一流のパフォーマーが大道芸を披露し、通行人は無料でそのショーを楽しむことが出来るというもので、このイベントの存在を通じて僕は大道芸という「仕事」があることを知りました。

 

自分自身が大道芸を始めたきっかけは、中学3年生(15歳)の頃にTVで観たブレイクダンスです。観た瞬間「なんてカッコいいんだ!」と思って、同じクラスの友人たちに声をかけ、誰一人ダンス経験のない5人組の素人ダンスチームを結成しました。結成当初はダンスの「ダ」の字も知らない友人とともに「まずは逆立ちじゃね?」なんて言いながら、ひたすら逆立ちの練習をしてましたね(笑)。あとはTVで流れていたブレイクダンスを録画してマネし続けるとか。もちろん、どれだけ練習をしても、素人ダンサーの僕たちに出演依頼などくるわけもなく、ただ練習するだけの日々が続きました。

 

そんなある日、僕らの学校の文化祭のステージで兄(当時大学生)がブレイクダンスを踊っている姿を目撃して…! 兄がダンスをしているなんて知らなかったので、すごい衝撃を受けました(笑)。それから兄にダンスを教えてくれるよう頼み、兄が所属している大学のダンスサークルの練習に参加したり、文化祭に出演させてもらったりするようになりました。

 

このサークルのメンバーに、現在日本を代表するダンサーの一人であるTAKAHIRO(上野隆博)さんがいたんですが、TAKAHIROさんのダンスは、ブレイクダンスとパントマイムを混ぜ合わせたような不思議な動きで、多くのダンサーがいる中でも一番観客にウケていましたし、盛り上がっていました。そんな姿を見て、僕もダンスと“ダンス以外のもの”を融合させるパフォーマンスに惹かれていきました。

 

それからはダンスとパントマイム、さらにマジックを取り入れたパフォーマンスを模索しながら、練習に励みましたが、いくら練習を重ねても素人ダンサーである僕にオファーはやってきません。そこで僕は「呼んでもらえなくても、人が大勢いる場所で勝手に踊ってしまえば、視界には入る」と発想を切り替えて、駅前の広いスペースにラジカセを置いて踊り出すことにしました。当時15歳、人生初めての大道芸でした。

 

学生時代の鈴木さん

 

プロの大道芸人になるまでの経緯を教えてください!

 

その後、高校を卒業するまでダンスを続けていたんですが、僕は大学進学で京都に引っ越したので、友人とのダンスチームは解散となりました。大学では、1回生の春にゼミの先生からレクリエーション研究会というボランティア活動のサークルに勧誘されたことをきかっけに、幼稚園や老人ホームでパフォーマンスを行うキャンパスライフが始まりました。

 

それからしばらくの間、1人でパフォーマンス活動をしていた僕に転機が訪れたのは3回生の頃。文化祭のステージ出演を終えた後、1人の学生から「弟子にしてください!」と声をかけられたんです。その後輩もまた、ダンス未経験者でした。彼と相談した結果、「せっかくコンビ組むなら、サークルを作ってみよう!」ということになり、同級生を誘って計3人でのサークル活動を開始しました。そして、ある出来事をきっかけに京都の学生団体が主宰するダンスコンテストへ出場することになります。サークルを結成して間もない頃の話です(笑)。

 

ダンス未経験の後輩と同級生、そしてダンスの基礎を知らずにパントマイムと融合させてしまった私という、コンテストには“最も不向き”なチームでしたが、「ダンスを知らないこと」が逆に自分たちの強みだと認識していた私は、ダンスという枠に縛られず、パントマイムやマジック、演劇の要素を組み込み、構成を作りました。そうして100組以上が参加する予選を勝ち抜き、ついに50組によるコンテスト本選を迎えます。

 

結果は「パフォーマンス賞」を受賞。グランプリ・準グランプリ・特別賞・パフォーマンス賞というわずかな受賞枠の中に入ることができたのです。コンテスト入賞で自信をつけた僕たちの活動はどんどん勢いづき、学生が主催するクラブイベントから幼稚園・老人ホームのボランティアに至るまで、自分たちを求めてくれるステージすべてに出演しました。遠征を行った時は遠征先の駅前でも大道芸を行うなど、どんどん場数を踏んでいきました。

 

 

そして3回生の夏休みを迎える頃、「自分のお金を持たず、大道芸の投げ銭だけで日本一周をする」というチャレンジを思いつき、“日本一周路上パフォーマンスの旅”に出ました。地元・浜松市の浜松駅前で大道芸をし、名古屋までの電車代を稼いだら、次は名古屋で大道芸をして四日市までの電車代を稼ぐ…。これを繰り返し、47都道府県を巡り帰ってきました。当時は若かったこともあり、自分にとっての偉業の達成にすっかり陶酔していましたね(笑)。

 

そんなある日、卒業した母校(高校)の先生から、フィリピン・パナイ島にある学校の特別非常勤講師になって、これまでの経験を話して欲しいという連絡をいただきました。当時、自分に出来ないことは何もないと思っていた僕は二つ返事でその話を受けます(笑)。そして、浮かれ気分で訪れたフィリピンでのひとときは、日本一周を偉業と思っていた自分がいかに“井の中の蛙”であったかを実感させてくれた、僕にとって大切な体験となりました。その時から自然と世界に目が向いていき、大学を卒業する頃には「世界一周をする」という夢を抱くようになり、就職という進路は選びませんでした。

 

フィリピンでのパフォーマンスの様子

 

卒業後、結局僕は世界一周とは異なる2つの道を進むことにしました。ひとつは自分と同じように“日本一周路上パフォーマンスの旅”を実行した友人とコンビを組み、“プロのパフォーマー”として生きていく道。もうひとつは、パフォーマンスをしながら韓国、マレーシア、ウガンダなどの海外へ遠征し、その時の経験を子どもたちに伝える“教育”の道です。プロに転向後、フィリピンの時のように講師の委嘱を受けたり、学校の文化行事で講演をしたりするなど、教育に関わる機会が増えていったおかげです。現在も日々小学校や児童養護施設に足を運び、子どもたちにパフォーマンスの披露や講話を行っています。

 

パフォーマンスユニット「スマイルクリエーター」

 

ちなみに、パフォーマーとしては現在コンビでの活動を休止し、僕も友人もソロで活動をしています。プロのパフォーマーとして将来を見据えたときに「2人でしかショーが成立しないコンビより、それぞれ1人でもショーを成立させることができて、コンビになると3倍面白いコンビにならないといけない」と2人で話し合い、お互いにソロで活動することになりました。

 

現在は大道芸人をしつつ、「エフビットでんき」の営業マンとしても活躍されていますが、入社までの経緯が気になります。

 

1人でパフォーマンスをするようになってさらにフットワークが軽くなった僕は、結婚を機に一般企業への就職を決意しました。しかし、大道芸人という職歴しか持たない私の就職活動は困難を極め、どれだけ書類を送っても面接にすらたどり着くことができませんでした。さすがに意気消沈しましたが、しばらくして転機が訪れます。とある企業説明会イベントに参加した時、ある会社の人事担当者の方に声をかけられ、初めて面接してもらえたんです。

 

その会社は損害保険の法人営業が主な事業で、社員は“5年間ノルマをこなした後、代理店として独立する”というシステムが取られていました。5年後自営業になるのであれば、就職する意味がないと考えた僕は担当者の方にその旨を伝えると、その人は「大道芸人という履歴書よりも、法人営業の履歴書の方が転職しやすいと思うよ」とアドバイスをくれました。つまり、転職前提で採用してくれるというのです。その言葉を受け、僕はその会社で働くことを決意しました。『エフビットでんき』営業マンへの道はもう少し先の話になります(笑)。

 

保険会社へ入社して1年。新米営業マンとしての日々を送っていた僕は、ある時、飛び込み営業先の会社の社長さんとすごく意気投合しまして。その社長さんから「なぜ保険の営業をしているんだい?」と聞かれ、僕は転職前提で働いていることを正直に話しました。すると「だったらいい会社があるから紹介するよ」と言って紹介してもらったのが、『エフビットでんき』を取り扱うエフビットコミュニケーションズ株式会社です。

 

エフビットコミュニケーションズ株式会社には2015年の4月に入社しました。中途採用ですので、本来なら即戦力であることが求められますが、私は5年間の大道芸人経験と1年間の保険営業の経験しかないので、未経験の電力会社で即戦力になるのは難しいと思っていました。そこで、まずはすぐに役に立てる「掃除」と、一日も早く戦力になるために必要な「勉強」にとにかく取り組みました。そんな始まりでしたので、それらの努力が実を結び、社内で一人前の営業マンとして認められた時はとても嬉しかったです。

 

そして、エフビットコミュニケーションズ株式会社は“大道芸人”としての僕のことも認めてくれています。入社してまだ日が浅かった頃、飲みの席で社長から「鈴木、お前はまだ大道芸続けてるのか?」と聞かれた時、正直に「仕事のない休日にはまだやっています」と言うと、社長はニコリと笑って「そうか。お前のソレは営業にも役に立つからな、続けろ」と言ってくれました。一般企業に就職する時、胸中では「大道芸を辞めないといけないかもしれない」という考えがあったので、社長のこの一言にはすごく救われました。社内の忘年会での余興はもちろん、エフビットコミュニケーションズ初のテレビCMに抜擢されパフォーマンスを披露するなど、大道芸人としての活躍の場も与えてもらったことに今も深く感謝しています。

 

鈴木さん出演のCMがコチラ↓↓

 

また、そうした経験のおかげで営業にもっと自分の強みをアピールしても良いと自信がつき、老人ホームや児童養護施設を対象に「電気代を安くして、無料で大道芸を楽しむのはいかがですか?」と、大道芸を切り口にした営業をかけるようになりました。この取り組みが、現在僕が行っている児童養護施設での活動につながっていきます。

 

現在行われている、児童養護施設への訪問活動について教えてください。

 

活動を始めたきっかけは、営業で児童養護施設を訪れるうちに、施設の子どもたちが抱えている問題を目の当たりにしたことです。子どもたちはさまざまな事情で親とは別々に暮らしているのですが、そのせいか“自己肯定感”を抱けずにいる子が多く、そんな彼らと触れ合ううちに、大道芸を楽しんでもらうだけでなく、子どもたちに「自分のことが好き!」と胸を張って言えるようになって欲しいと考えるようになりました。

 

勉強が苦手で劣等感を抱く環境がそろっていた自分が、自己肯定感をもって生きてこられた理由を言葉にし自分の生き方を伝えることで、子どもたちが少しでも「自分にも(何か)できるかも」と感じてもらえたら、それはとても有意義なことだと思ったんです。そう考えてから、仕事とは別に「子どもたちが自分を好きになってくれること」を目的に全国の児童養護施設を訪問し、大道芸のパフォーマンスと講話を通して子どもたちにメッセージを伝える活動を始めました。この活動は今後もどんどん広げていくつもりです。

 

小学校での講演会の様子

 

最後に、鈴木さんの将来の夢を教えてください!

 

最近は小学校や児童養護施設だけでなく、中学校や大学でも講演をする機会がもらえるようになってきたんですが、そこで教員の方から「自己肯定感を失っているのは施設の子どもだけではありません。ごく普通の学生も将来の夢がなかったり、自分に自信が持てない子がたくさんいます。そんな子どもたちにあなたの話を聞かせてあげたい」という言葉をいただきました。なので、これからは施設に限らず、子どもたちがいるところ(学校など)にどんどん訪れてメッセージを伝えていきたいと思っています。そして、講演家ではなく大道芸人だからこそできる、楽しくて笑える時間を提供していきたいです。

 

大道芸人の頃から感じていることに「本物でなければ響かない」というのがあるんですが、これは大道芸に限らず、保険の営業でも、電気の営業でも、講演でも同じことが言えると強く実感しています。だからこそ子どもたちには、自分がこれまでの人生でした出会いや経験を通して得たものを“ありのまま”の言葉で伝えていきたい。人の心に響くのは「本物」だけなので。そして、自分の言葉が「本物」であり続けるためにも、自分自身の人生やパフォーマンスの技術をこれからも磨き続けていきたいと思います!

 

 


 

鈴木さんのパフォーマンス動画はコチラ↓↓