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特集
京都のはなしvol.1 屋根の上の鍾馗さん
平安京への遷都以来、長年日本の政治・文化的中心地として栄え、現在も国内外から多くの観光客が訪れる街・京都。千年もの長きに渡って堆積した歴史、風習、言い伝えは現在も私たちの生活に溶け込み、脈々と受け継がれています。だのに、肝心の京都人(定義が人によって異なり度々物議を醸す。ここでは京都在住の人の意)は地域の遺産とも言える京都のアレやコレやにそこまで興味がない…!(ような気がする…!) そんな状況を打破すべく、京都在住6か月目を迎える(戸籍の上では京都人の)編集Aが自身の興味の赴くままに、独断と偏見を以て、街中にひっそり存在する多種多様な”京都のはなし”を掘り起こし、発信していきます。
疫病退散!”鬼より強い 鍾馗さん”伝説
屋根の上から悪い奴ら(疫病・厄災)に睨みを利かせる鍾馗さん。(写真提供:鍾馗ロード実行委員会)
古い町並みが残る京都の町(特に東山区)を歩いていると、町家の屋根の上に小さな人形が飾られている風景を見かけます。なんだなんだと凝視すると、髭を蓄えたやたら厳めしい表情のおじさんと目が合う。激しい剣幕に思わず冷や汗、、、が出ることはないけれど、心なしか体が楽になった気がする…。この小さな御姿のおじさんが、古くから京都で愛されている守り神・『鍾馗(しょうき)さん』です。
鍾馗さんのデザインは実に多彩。ポ○モンGO気分で探せそうだ。
これが鍾馗さんだ★
京都では主に疫病除けの神様として、家の屋根の上に瓦で作られた鍾馗さんの像(だいたい20~30cmくらい)が飾られています。
【 御姿 】
長く立派な髭を蓄えている(三国志の○羽みたい)
中国の官人(役人)の衣装を身にまとい、右手には剣を携えている
鬼のような形相(もともと厳つい顔らしい)で周囲をジロリと睨みつけている
【 御利益 】
厄病除け(魔除け)、学業成就
上記の御利益のほか、商売繁盛への願いも込められており(京都だけかも)、商いをしているお店に設置されていることも多いです。おそらく「鍾馗」と「商機」の読みが同じことから、それにあやかって願掛けが始まったのでしょう(シャレ好きな日本人らしい)。お店といえば舞妓さんのいるお茶屋さんでも鍾馗さんをよく見かけますね〜(東山区の宮川町や花見小路など)。これには舞妓さんや芸妓さんを厄災から守る意味もあるようです。
ここまでざっと鍾馗さんのプロフィールを紹介しましたが、次はそのルーツについて紹介していきましょう。そもそも鍾馗さんは日本発の神様でなく、もとは中国の民間伝承に伝わる道教系の神様です。なんと、元人間で今から1300年以上前に時の中華王朝・唐の6代皇帝・玄宗(げんそう)の枕元にあらわれ、鬼を退治したことから神様として祀られるようになったと言われています。
~ “鬼より強い鍾馗さん伝説”(伝説の始まり編) ~
ある時、唐の6代目の皇帝・玄宗は病(マラリヤ)にかかり床に伏せていた。玄宗は高熱の中である夢を見ていた。夢の中では「虚(きょ)」、「耗(こう)」という小鬼が宮廷内をうろつき、玄宗の妃である楊貴妃(ようきひ)の香袋や笛を盗んでいこうとしていた。するとどこからともなく髭面のいかつい大男が現れ、あっという間に小鬼たちを退治してしまった。玄宗がその大男に名前を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗といいます。かつて官吏になるため科挙を受験しましたが落第してしまい、そのことを恥じて宮中で自殺しました。その時、皇帝・高祖(唐の初代皇帝・李淵)が自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるために参上しました」と告げて消えていった。目が覚めると、玄宗は病がすっかり治っていることに気づく。病の原因であった小鬼を鍾馗さんが退治してくれたおかげと考えた玄宗は、著名な画家である呉道玄(ご どうげん)に命じて夢で見た鍾馗さんの姿を描かせた。以後、鍾馗さんは災厄を払う厄病除け(魔除け)の守り神として祀られるようになった。めでたしめでたし。
*高祖(李淵)の時代に科挙を受験したという説と、玄宗の時代に受験したという説の2説がある。
超難関と言われる科挙を受験するようなインテリで鬼を退治出来るほど強いなんて、さすが神様になるだけはある…。そんな文武両道マンがどうして落第したのかを調べてみると「顔が醜かったから」。、、、うーん、無常だ。そんな理由で落とされたのに助けてあげるなんてなんちゅう懐の深さ。男が惚れる漢だ。
京都で鍾馗さんが人気になった理由
元々中国の神様である鍾馗さんはいつ日本に来て、京都でも人気を博するようになったのか。調べてみると、平安時代末期から鎌倉時代初期(12世紀ごろ)に制作されたと考えられる「辟邪絵(へきじゃえ)」(疫鬼を懲らしめ退散させる善神を描いた絵)に描かれていたものが、日本で鍾馗さんを確認できる最古の記録のようです。室町時代以降は漢画(水墨画。唐画とも呼ばれる)の題材として多くの画師に好まれていたとか。
京都で屋根の上に鍾馗さんを飾る風習が生まれたのは、江戸時代の頃に起きたあるエピソードがきっかけと言われています。
~ “鬼より強い鍾馗さん伝説”(屋根の上から邪気退散編) ~
江戸時代、京都の三条である薬屋が大きな家を建て屋根に立派な鬼瓦を葺きました。それからしばらくして、薬屋の向かいにある家の住人が原因不明の病に倒れてしまいます。あれこれ手を尽くしても病が快方に向かわないことに困り果てた医師は、隣家(薬屋)の屋根に葺いた鬼瓦が跳ね返した悪いもの(厄災)がこちらの家に降りかかっていることが原因だと考えました。医師は伏見・深草の瓦職人に「鬼より強い」鍾馗さんの像を作らせて、鬼瓦と睨み合うように屋根の上へ飾らせたところ、住人の病はたちどころに完治しました。めでたしめでたし。
*屋根の上に鍾馗さんを飾るに至った経緯として、薬屋に鬼瓦をはずしてくれと頼めなかったとも、頼んだけれど大金を使って葺いたから嫌だと断られたとも言われている。
鍾馗さんパワーおそるべし。中国の言い伝えをもとに「鬼より強い」という認識があったことから、鬼瓦に向かい合わせる発想が生まれたのかもしれません。トンチの利いたお医者さんがMVPですね。薬屋はせっかく大枚はたいて良いお家を作ったのに悪者扱いされる結果に。周りに気を遣うってやっぱり大事なんだなあ…。
ちなみに鍾馗さんの飾り方には結構細かなルールや考え方があります。
その一
向かいの家やお寺に鬼瓦がある場合は、鬼瓦と正面から向かい合うように鍾馗さんを飾る。
その二
向かいの家を睨まないように正面でなく、少し斜めに向けて飾る。
その三
向かいの家にすでに鍾馗さんがいる場合は、お互いの鍾馗さんが睨み合わないように目線を外して飾る(微笑み返しとしての「おたふく」を対面に据える場合もある)。
→その二、その三にする理由は人間(ご近所)関係に角が立たないようにすることが目的なんだそう。
その四
鍾馗さんの像は高さが20~30cmくらい。
→像が大きすぎないのは「大げさに思われないようにしたい」、「間口が狭いため大きな鍾馗さんだと家と釣り合わない」、「お向かいに威圧感を与えないようにしたい」という気持ちから。
うーん、何とも京都人らしい(誉め言葉)です。
清水五条坂にある日本で唯一(おそらく)の鍾馗神社
鍾馗神社の御神体・鍾馗さん像 平成25年12月1日 建立 京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)
美人神社として有名な東山区五条坂にある若宮八幡宮には、日本で唯一鍾馗さんを御神体として祀った末社、その名も『鍾馗神社』があります。
御神体の鍾馗像は京都造形大学(現・京都芸術大学)の学生さんが2013年に制作されました。一般的な鍾馗さんを圧倒する大きさ(140cm!)は見事なものです。顔の厳つさも申し分なし。御神体の周りに小さな(こっちが普通ですが)鍾馗さんがいるのも可愛い。さらに奥にはお面職人さんが作った鍾馗面も。鍾馗さんの欲張り詰め合わせセットですなあ。
なぜ若宮八幡宮に作られたかというと、冒頭で話した通り東山区では今でもたくさんの家で鍾馗さんが飾られていることと、陶祖人・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を祀った陶器神社があることから、地域に馴染みが深く同じ焼き物である鍾馗さんをここで祀りましょうという話になったそうです。
鍾馗神社の社。災い除けとして鬼門にあたる北東を向くように鍾馗さんが設置されている。
毎年11月には鍾馗さんへ感謝を捧げる『鍾馗祭』が開催(運営:若宮八幡宮、鍾馗ロード実行委員会)され、境内で鍾馗さんの物語をベースにした舞を披露する奉納舞や、鍾馗さんが街を練り歩いて感謝の舞を披露する巡行舞などの行事が行われます。境内では手ぬぐい、お守り、おみくじ、アクセサリーなどの鍾馗さんグッズの販売も! 世間的には必ずしも多いといえない鍾馗さんグッズが手に入るまたとない機会なので、鍾馗さんLOVEになった人はぜひ参加しましょう。
巡行舞の様子。宮司さんの後ろで抜刀しているのが鍾馗さん(写真提供:鍾馗ロード実行委員会)
鍾馗祭を運営する『鍾馗ロード実行委員会』とは
現在若宮八幡宮とともに鍾馗祭を運営している『鍾馗ロード実行委員会』は、おそらく日本でも有数の鍾馗さん愛(LOVE)と鍾馗さんネットワーク(研究者や愛好家とのつながり)を持った団体です。元々は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の学生有志による産学連携プロジェクト『近代産業遺産アート再生プロジェクト・まか通』の一環だったものが、活動の広がりとともに現在の独立した団体となったようです。
鍾馗祭の運営のほか、粘土を使ってオリジナル鍾馗さんを作るワークショップや、東山区にある鍾馗さんを巡る鍾馗さんツアーなど、鍾馗さんの魅力を人々に伝える活動を精力的に行っているそうです。
鍾馗さん作り体験の様子。(写真提供:鍾馗ロード実行委員会)
調べていくうちに鍾馗ロード実行委員会そのものに興味が湧いたので、代表の吉田瑞希さん(陶芸作家として活動する傍ら、鍾馗ロード実行委員会を運営)にコンタクトを取りお話を伺いました。吉田さん曰く、委員会は現在3人のメンバーで活動しており、祭りやワークショップの運営は若宮八幡宮をはじめとする地域の方々と京都芸術大学の学生有志の力を借りながら行ってるそうです。
委員会の理念は「自分の住んでいるまちを色々な視点で見て、その魅力を再発見すること」で、鍾馗さんに関する取り組みもその一環なんだとか。そうして、東山区では”当たり前の存在過ぎて逆に意識されていなかった” 鍾馗さんが再び日の目を浴びるよう活動に勤しんだ結果、鍾馗祭の参加者は年々増加し、徐々に地域の文化として定着しつつあるそうです。
今後の展望を聞くと「ゆくゆくは地域の新しい名物となるような商品を開発し、地域経済の一助となりたい」とのこと。なんて壮大な野望…! その手始めとして、現在自宅で作れる鍾馗さんキットの開発を進めているそうです。販売が実現したら某動画サイトで「鍾馗さん作ってみた」動画がムーブメントを巻き起こすかもしれない。頑張れ! 鍾馗ロード実行委員会! ゴバーンを代表して勝手に応援しています!
【番外】京都以外の鍾馗さん
ここまで鍾馗さん=京都で親しまれている神様という紹介の仕方でしたが、、、これは半分正解で半分誤りでございます、、、。なぜなら鍾馗さんは京都のみならず日本各地で、さまざまな形で、親しまれているからです。
連載第一回目で早速企画の趣旨からズレますが、最後に京都以外の地域での鍾馗さん文化を紹介します。
①鍾馗さんを屋根に飾るのは京都だけじゃない
京都以外の近畿地方(奈良県など)や中部地方(愛知県など)でも家の屋根の上に鍾馗さんを飾る風習があります。ネット調べですがどうも愛知県は多い模様。
②関東でも邪気や疫病を退ける神様として人気
関東でも邪気や疫病を退ける神様として信仰されていたそうです。江戸時代末期(19世紀)頃には端午の節句の飾りに欠かせない存在として、幟(のぼり)や人形のモチーフに鍾馗さんが使われていました。鍾馗さんをかたどった五月人形は今でも大人気!
ちなみに五月人形の鍾馗さんには髭の色が黒いものと赤いものがあり、「赤鍾馗」さんには疱瘡除けの御利益があるとされています。これは日本には古くより疱瘡をもたらす疱瘡神が赤色を嫌うという伝承があったからです。
③東京や愛媛でも鍾馗さんがお祭りに登場
江戸(東京)では古くより、『山王祭り』、『神田祭り』で曳く山車の人形に鍾馗さんがよく使われていました。そして愛媛県松山市には鐘馗寺(”しょう”の字が金偏に童)というお寺があり、言うまでもなく鍾馗さんをお祀りしています。鐘馗寺で毎年7月11日、12日に行われる『鐘馗まつり』は、松山三大夏祭りの一つに数えられているのだとか…!
④長崎歴史文化博物館には鍾馗作品がたくさん所蔵されている
長崎県にある長崎歴史文化博物館(長崎市)には江戸時代後期に描かれた鍾馗図が多く所蔵されています。鍾馗さんの作品が多く残っているのは、長崎が地理的に中国と関係深いことから中国にルーツを持つ鍾馗さんは馴染みのあるモチーフだったからと考えられています。安政5年(1858年)に長崎から全国へ広がったコレラの流行の際には、疫病除けのお守りとして多くの人が鍾馗さんの図を求めたそうです。